国際青年演劇センターの歴史 (1970〜1996)

1、KSEC-Album
 父:若林 彰は、1970年に国際青年演劇センターを創設した後、五年毎にその「活動報告アルバム」を発刊する意図でした。しかし、 Vol.1 (1976年刊/1970〜1975) 、 Vol.2 (1981年刊/1970〜1980) 10周年記念、 Vol.3 (1986年刊/1970〜1985) を発刊しましたが、1990年は、「演劇資料文献目録」を発刊し、アルバムVol.4の発刊に至らず 、その後の1995年も2000年も発刊出来ないままでした。
 遺品の資料は、殆どその未発刊アルバムの為の作業の最中の状態で、様々な資料「著述」「写真」「公演パンフ類」は、アルバム編集の為にランダムに組み合わされ、父:若林 彰の頭の中にのみ存在したアルバムレイアウトが分からない限り、様々な資料の招待さえ分からない状態でした。

 以下は、発刊されたアルバムの文言を再編したものです。Album-Vol.2は、文言が一切ありませんでした。

2、国際青年演劇センターの主旨

  KSEC-Album Vol.1 (1976年刊/1970〜1975) より

 1970年設立以来、私たち国際青年演劇センターは、新しい実験劇の創造と若い芸術家の国際交流という二つの昨日を同時に遂行するための努力を量ねて来ました。
 実験劇の創造として私たちは過去5年間に約10本の作品を上演しましたが、その中には歌舞伎様式によるゲルドロード作品、能と狂言のためのアラバール作品、近松門左衛門の人形浄瑠璃をロック音楽との組み合わせ、前衛日本舞踊による芥川龍之介作品「薮の中」などがあげられます。
 一方、演劇の国際交流としては、これまでに200名以上の若い日本の演劇人のナンシーやヴロツワーフなどの演劇祭参加に協力し、約300名の外国の若い芸術家を日本に招待しましたが、その中にはF・アラバール、ジャック・ラング、ナイロビのインター・アフリカン・シアター・グループ、ブリュッセルのヴィシナル演劇実験室などが含まれています。
 また私たちの将来の企画には、金属マリオネットによるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「耳なし芳一」やバルセロナの不朽の天才アントニオ・ガウディに触発されたカタロニアの若いグループの日本招待などが予定され、それと平行して日本の最も前衛的なグループによるシラーズ・ペルセポリス、パレルモ、アヴィニョン、ニューヨーク、カラカス、そしてサンパウロ遠征などが計画されています。
 今回、センター過去5年間の活動を総括するために英文と和文によるパンフレットを発行することになりましたが、これが私たちのセンターの理想と実践を理解する一助となり、また世界の演劇の交流と相互理解の発展に寄与出来れば幸いです。                                    1976年:若林 彰
  Vol.3 (1986年刊/1970〜1985) より

 国際青年演劇センター(略称KSEC)は、世界の若い演劇の国際交流の発展と、国際的詩やに経った新しい実験劇を創造することを目的として、1970年、東京に於いて設立された。
 1971年、センターは日本で初めてナンシー(フランス)やヴロツワフ(ポ−ランド)など、世界の実験劇のフェスティヴァルに参加し、以後、ペレルモ(イタリア)、カラカス(ヴェネスエラ)、サンパウロ(ブラジル)、メキシコ・シティ(メキシコ)、リエージュ(ベルギー)、ブダペスト(ハンガリー)、ソフィア(ブルガリア)、ラトカスブルグ(オーストリア)、エディンバラ(イギリス)、ニューヨーク(アメリカ)、などの演劇祭に参加した。
 センターはまた、第三世界演劇祭(マニラ71、ソウル81)をはじめ、世界パントマイム・フェスティバル(ザラエゲルセグ・ハンガリア72)、世界民俗芸能祭(カルディーツァ・ギリシア74)、メッシーナ・イタリア75、国際ワークショップ(ベルガモ・イタリア77)、国際住民族祭(ピータバラ・カナダ82)、世界聾唖者演劇祭(ブルノ・チェコスロバキア82、83)にも参加し、その他、ブカレスト、ウィーン、ブリュッセル、アテネ、リマ、ロスアンジェルスなどで公演した。

 一方、上演や展示会などの国内活動と平行して、センターは国際協力企画にも積極的に取り組み、外国の芸術家を日本に招待したが、それにはスペイン、フランス、韓国、カナダ、アメリカなどの若い劇作家や演出家、ケニア、ベルギー、韓国、ペルー、ポルトガル等のグループが含まれる。
 これら15年の活動について、日本政府及び政府関係機関から四回にわたって助成金が与えられた。即ち1972年、東ヨーロッパ四ヶ国巡演について文化庁助成、1977年、メキシコのセルバンテス芸能祭参加について国際交流基金助成、1980年、日本ペルー協力公演について国際交流基金及び日本万博記念基金助成である。

 将来は、東南アジア、オセアニア、アフリカ、中近東等の途上国との国際文化交流は少数民族や身体障害者の福祉問題も含め、ますます拡大発展されねばならない。  

 センター設立15周年に際し、世界の若い人々がこの15年間に、非商業主義の演劇の為にどのように行動し、そして各国の政府や地方政府機関、I.T.I.やユネスコなど国際文化団体が、どのようにそれをバックアップしたかを記録する為に、このリポート派作成された、                     1986年 KSEC代表:若林 彰
   

3、国際青年演劇センターの歴史の流れ

 

国際青年演劇センター創設の必然性     1960年代・世界の政治状況と演劇   
センター設立は、どのような環境の中で準備されたか?

1)内外の政治情勢  イデオロギーの後退と新しい地政学  
  戦後10年、世界の政治情勢は新しい価値とバランスを求めて激しく流動しつつあった。大国の分割支配や覇権主義は次第に影響力を失い、第三世界の台頭や小国の自主独立路線による世界政治の多極化が進行した。即ち、世界の状況はもはや資本主義と社会主義、西側と東側という従来のイデオロギー論では捉えることの出来ない様々な地政学的問題ーー大国と小国、先進国と途上国、同名と非同盟、北半球と南半球等の間の矛盾、さらに又イデオロギーそれ自体が包括する矛盾ーーマルキシズムと修正主義、旧左翼と新左翼ーーが次第に表面化して行ったということである。

 このようにして60年代から70年代に掛けてのベトナム戦争の長期化と、米中ソの硬直した関係の中で、1968年3月、チェコで反ソ自由化の政治行動がとられ、同年5月、フランスではパリ5月革命が勃発した。日本でも一連のラディカルな学生運動が組織された。

2)世界の同時代演劇  都市ゲリラ型、アラバールとパリの小劇場運動、 表現の自由と解放    

 政治と同様、演劇に於いても従来の大劇場中心の力関係は次第に崩れ、地下劇場、キャフェ・テアトルを拠点とする小劇場運動がほうはいとして起こりつつあった。これら前衛的な小劇場演劇は、世界に於いて同時多発的に起こり、主として大劇団や大劇場に属さない若い演出家や演劇イデオローグたちによってリードされた。

 ヨーロッパでは1950年代のペケットやイオネスコなどの劇作家によって打ち出された不条理演劇やアンティ・テアトル(反演劇)の思想は、60年代のパリに於いて、フランコ・スペインからの亡命劇作家フェルナンド・アラバールのアンチ・エタブリスマン(反体制)の演劇によって受け継がれ、ラテンアメリカ系の若い演出家V・ガルシアやJ・ラベリなどがこれに呼応した。
 アメリカでは、ニューヨークのラ・マーマ劇場(E・スチュワート)、パフォーマンス・グループ(R・シエクナー)、パンと人形劇団(P・シューマン)、バード・ホフマン(R・ウィルソン)などが、ブロードウェイの商業主義に対抗して次々に名乗りを上げ、日本でも寺山修司の天井桟敷を筆頭に、状況劇場、早稲田小劇場、演劇センター68、発見の会、代々木小劇場などが活動を開始石、宮本 研、清水邦夫、別役実などの劇作家が新しい時代を予告した。

3)地方コンミューン型 ジャック・ラングとナンシー国際青年演劇祭
若い実験劇の会合、反画一主義、 地方分権の伝統と大学の役割、  

  上記のような大都市(首都)に於ける前衛的小劇場運動と平行して、もうひとつの潮流が主としてヨーロッパの地方都市に早くから存在した。すなわち、伝統的なコンミューン(地方共同体})の思想を基盤とし、その地方の大学を拠点とする大学演劇(テアトル・ユニベルシテール)である。

  これらノンプロ思考の大学演劇では、財政的にも中央〜独立し、芸術的には商業主義やスターシステムにも毒されることが少なかった。
 その中で最も華々しい活動を展開したのは、フランスロレーヌ地方の首都ナンシー(パリ東方300km)に於ける世界青年演劇フェスティバルである。主宰者ジャック・ラング(現ミッテラン政権・文化相)は、1963年、初めてナンシーで世界青年演劇祭を開催し、1968年迄の5年間に世界4大陸、43ヶ国の若いグループの上演参加を実現した。  曰く「世界の演劇界を貫くモットッも革命的で生気に満ちた潮流を代表する為の世界の若い劇団の国際会合」である。

 ナンシーと殆ど同時期の1965年、ポーランド・シレジア地方の首都ヴロツワフ(※1)市に於いても、ヴロツワフ国際学生演劇祭が開かれ、毎年東ヨーロッパは勿論、世界各国の若い劇団が参加して、フランスのナンシーと競い合った。
 この他、イタリアのパエルモ、ベルギーのリエージュ、ユーゴのリュブリアーナでも同じような地方自治体や大学を中心とする国際演劇祭が組織されつつあった。
 いずれも、地方分権の伝統と、大学演劇の実験性を堅持し、同時に世界に向かって大きく門戸を開いたのである。  

 日本では、大学演劇の伝統が乏しかったために、1960年代にはまだ目立った動きはなく、只、玉川大学及び東海大学などが、東京郊外に大学都市(シテ・ユニベルシテール)を形成し、新しい世界の動向に敏感に対応しつつあった。玉川大学演劇部では、1966年、いち早くナンシー演劇祭に上演参加している(※2)

(※1)ヴロツワフ市は、ドイツ分割時代にはブレスラウと呼ばれ、第二次世界大戦後、同市のポーランド貴族が決定した。新旧の歴史が交錯する学園都市ヴロツワフ市には、グロトウスキの演劇実験室や、H・トマセフスキのバレー・マイム劇団などがあり、演劇祭の中核をなすカランブール(Kalambur)劇場とともに、豊かな演劇的土壌を作り出している。
(※2) 1966年の第四回ナンシー演劇祭には、日本から玉川大学演劇部が、木下順二作、岡田陽演出による、「夕鶴」を持って参加した。日本のプロ劇団が参加したのは、それより五年後の1971年である。


1970年代 国際青年演劇センター創設の動機

1)アラバールと小劇場  
 1960年代から70年代にかけて、日本の小劇場の中でF・アラバールが果たした役割と影響力は大であった。  1963年、若いグループ「波の会」が日本で初めてアラバール劇「ファンドとリス」(安堂信也演出)を取り上げ、1965年には雑誌「新劇」が代表作「戦場のピクニック」の台本を紹介。続いて1967年「テアトロ」が「ゲルニカ」の台本を掲載した。

 さらに1968年、思潮社によって「アラバール戯曲集Vol.1(若林 彰訳)」が出版されると、若手劇団から大学、高校演劇にも波及し、地方演劇にもアラバール劇が浸透して行った。
 このような状況の中で、その翻訳者である若林 彰と日本の若いグループとの接触は飛躍的に増大し、これが後に国際青年演劇センター創設の下地となった。

 この時期に於けるアラバール劇の代表的な上演は、代々木小劇場の「ゲルニカ(竹内敏晴演出)」、発見の会の「戦場のピクニック(瓜生良介演出)」などである。 (補)1966年、高校演劇コンクールに於いて、日大鶴が丘の「戦場のピクニック(米本一夫演出)」が関東地区で優勝した。

2)ナンシーとの交流  
 国際青年演劇センター創設のもう一つのモニュメントは、ナンシー演劇祭との交流である。
 1968年、初めてナンシーに招待された若林 彰は、主宰者ジャック・ラングとコンタクトし、帰国後、前田允、中本信幸らと《ナンシー演劇フェスティバル日本連絡事務所》を立ち上げた。
  これが事実上、国際青年演劇センターのひとつの前身である。

  同事務所で若林 彰は、ナンシーに関する報告文を「新劇」その他に発表し、また報告会、シンポジウム、スライド上映会などを催した。
 その指向するところは、将来に於いて日本でもナンシー型のフェスティバルを開催することであった。

  1970年、劇団三十人会のオブザーバー二名が、引き続きナンシーに参加し、70年代初頭の日本劇団の上演参加ーー結城人形座、天井桟敷、青年座ーーの端緒を作り出した。

3)ドキュメンタリー演劇  
  他方、国際演劇協会(I.T.I.)の機関誌「世界の演劇」は、1968年、学習院教授:鈴木力衛氏を通じ、若林 彰に日本のドキュメンタリー演劇のリポート作成を依頼した。若林 彰は主として1960年代の上演記録をまとめ、約10本の日本記録演劇の報告書を仏文で作成した。
  1970年、同誌の編集長は、これを「世界の演劇No.17」で数枚の舞台写真入りで掲載し、日本側の労作を評価した。  事実、作業は数ヶ月の機関を要し、しかも無報酬であった。このことからも、将来に於ける機動的な国際演劇の交流機関設立の急務が痛感されたのであった。


国際青年演劇センター創設と交際演劇交遊の推進

1)国際青年演劇センターの創設  前記した《ナンシー演劇フェスティバル日本連絡事務所》は、日本の若い演劇の国際交流を本格的に進める為には天敵に解消し、1970年4月、東京に於いて国際青年演劇センター(略称KSEC)が創設された。創設時のメンバーは以下の通りである。

創設メンバー (括弧内は、若林忠宏注釈)

若林 彰 (代表)
竹内敏晴 (演出家/1980年に手話劇でも共演)
利光哲夫 (翻訳・演劇評論家/テアトロ編集長)
前田 允 (仏文学、Nancy連絡事務所から引き続き)
中本信幸 ( N連絡事務所から引き続き)
米本一夫 (演出、日大鶴が丘演劇講師)
鍛冶 昇 (演出・制作/映画監督)
遠藤啄郎 (俳優・戯曲家/横浜ボートシアター)
舟木日夫 (俳優・制作・装置・演劇評論/1980年に「狂気の館」に出演)
塩谷 敬 (仏文学、後に渡仏しJ・ラング氏助手と成り、その後は静岡大学教授)
湯浅 実 (俳優:青年座)
戸張規子 (フランス文学/慶応名誉教授)

目的
1)日本の若い演劇の国際交流を推進し、世界の最も実験的である 生気に満ちた演劇の潮流に参加すること。
2)国際演劇を通じて日本演劇の新しい可能性を追求し、 世界的詩やに経った実験劇を創造すること、

  組織と財政 センターの会員は、日本の若い演劇人、大楽人、芸術家、その他 を包括し、また在日外国人の専門家も含まれた。 この場合、事務局の先住員を除き、会員は他の劇団その他に同時に 所属することを妨げなかった。 会費:創設当時、メンバー選出の常任委員会が事務局、運営費、 オフィス賃料、事務局員手当を分担カバーすることで出発し、 会員から会費を徴収せず、入会金も徴収されなかった。

  委員会 創立メンバーの中から常任委員会を選出、人気を二年とした。 その後は、常任院会の任命は会員の互選によって行われ、 内1名が代表委員に使命された。 常任委員会の下に幾つかの専門委員会(technical-committee) が常設され、独立採算制によってその事業を遂行し、 事業が完了すると同時に解散した。

  この特別専門委員会は、一種のプロジェクト・チームであり、 年数回召集され、連続的に委員会に指名されることを妨げなかった。

  常任委員会---------- 事務局---------------
 名古屋スタジオ 専門委員会 (TC/常設)
  アフリカ委員会
  ラテンアメリカ委員会(CAL)→KSEC名古屋

  特別専門委員会 (STC/非常設)(プロジェクトチーム)

  アフリカ委員会は、飯島 岱によって発足、 名古屋スタジオは、松本喜臣によって発足。 ラテンアメリカ委員会は、1974年、神宮寺啓、深沢伸友らによって 発足し、後にKSEC名古屋として活動する母体になった。

2)事業計画と財政基礎    
 上記の様に、事務局運営費は、常任委員会が分担カバーすることで出発し、主として国際交流の連絡事務(外国との通信、国内での広報)を担当した。これに要する経費は、一般会計で処理された。
 事務局運営を除く、すべてのセンターの事業(海外公演、国内公演、研究会、セミナー、展示会、外国人招待 etc)は、その都度常任委員会の承認のもとに、前記特別委員会(STC)が、計画を立案・実施した。

 その財政基盤は、事業による収入(入場料収入・参加費)、寄付金、外部協力金、広告料収入、国庫補助であり、事務局費用から分離した独立採算制であった。事業のバランスは短刀プロデューサーにより監査、報告され、特別会計によて処理された。これらSTCの事業はセンターの首都して創造面に関する事業であった。

3)一般会員とセンター活動の関わり
 センターの全ての事業は、STCによって実行に移されたので、会員がセンターの事業に関わる場合、先ずSTCに選出されることが前提であった。STCは会員の中から選抜され、また広く外部にも参加を呼びかけた。
 それぞれの活動に参加しない会員に対しては、臨時ニュース・レター、または年に4〜6回のKSECインフォメイションを送付した。但し、三年以上何らの活動にも参加しない会員は、自動的にリストから除外した。

  創造集団としての国際青年演劇センターの在り方は、通常の劇団とは異なり、むしろプロデューサー・システムに近かった。事実、センターは従来の劇団システムが内包するヒエラルキー(序列・階級制)や営利性などを批判する所から出発した。

 創設メンバーの多くが既成の劇団の矛盾を批判し、60年代の新しい小劇場への参加者であった国際青年演劇センターの芸術路線は、従来からの固定観念が枠を取り外した、自由と大胆さと、反アカデミズムと反権力などの姿勢に於いて、前衛的であった。  

 一方、ナンシー演劇祭の指向する国際演劇の多様性と演劇地政学(ジオ・テアトロジー)も共感出来たし、ポーランドのヴロツワフ演劇祭のスローガン《反イデオロギーと反伝統》も理解出来た。
  しかし、演劇の国際交流を通じて、日本の独自性と伝統の再発見による「新伝統(ネオ・トラディショナル)」路線も大いに重要となり、言語表現の抑制から、視覚演劇や肉体表現なども新しいテーマとなった。

(補)スペインの前衛劇作家バーリエ・インクランやアラバール、フラマン派のM・ゲルドロードなどの中にある中世的《異形》と《バロック》は、センターの芸術路線に強い影響を与え、日本の歌舞伎の中にあるバロックとフュージョンして《ネオ・バロック》《ネオ・トラディショナル》となった。

  1980年代 国際演劇交流の新しい方向とセンターの活動

1)常任員の新編成    

代表委員:若林 彰(演出、制作、翻訳)
運営委員:奥村公延 (演技)、平岡久明 (演出)、 丹羽たかね(演技、制作)、村上ちず子(演技、制作)
高塚行男(演技)、磯 秀明(演技)、加藤節子(広報)
専門委員:李 三郎(韓国演劇)
名古屋:神宮寺啓(演出)、深沢伸友(制作)、榊原忠美(演技、制作) 服部 公(演技)、吉田憲司(演技)。

2)80年代の方向

a:国際協力にみる上演の試み  
1970年代の若い演劇の国際交流が、主としてフランスのナンシーとポーランドのヴロツワフ両演劇祭を主軸として展開され、それが次第にイタリアのパレルモ、ヴェネズエラのカラカスなどに波及し、70年代は世界青年演劇フェスティバルの黄金時代を現出した。この傾向は、70年代の半ばをピークとして次第に新しい可能性が追求されることになった。即ち、国際青年演劇センター再挙力による上演の試みである。

b:地域ブロックの形成  これの関連して世界の各地域に共同作業の基礎となるブロック結成が進められた。例えば、スカンジナビア諸国では、その共通の歴史的、文化的、政治的背景に基づき、早くから共同作業がなされ、またラテンアメリカ諸国でも同様の動きが見られた。センターでも80年代の初めから、新しい国際協力公演を企画すると共に、韓国や中国との共同作業の可能性を探求することになった。

c:第三世界演劇祭  これとは別に70年代の前半から、既に第三世界演劇祭の潮流があった。フランスやポーランドの演劇祭が若い前衛劇のフェスティバルであったのに対し、第三世界の演劇祭が伝統演劇も含まれ、途上国の歴史的、政治的現実を半生させることに主眼が置かれた。第一回は、フィリピンのマニラで行われ、ボンベイ(インド)、ペルセポリス(イラン)、カラカス(ヴェネズエラ)、と継承され、1981年ソウル(韓国)での第五回大会にには、センターと在日韓国人グループの提携作品が上演参加した。

d:先住民族演劇祭  第三世界の演劇祭と共に、もうひとつの新しいテーマ《第四世界》の神話を組織すると言う提案が主としてノルウェイやデンマーク、アイスランドの演劇人グループによって提起された。即ち、アラスカ、シベリア、グリーンランドなど、広大な地域に分散するエスキモー、南北アメリカのインディアン、オーストラリアのアボリジニなどの文化遺産の警鐘の問題である。 1982年、センターはこの新しいテーマに対して積極的に取り組み、北海道のアイヌ人芸術家との共同作業により、カナダの国際先住民演劇祭に参加した。  又、1983年、ニューヨークのラ・マーマ劇場は、国連の《世界コミュニケーション年》際し、《伝統文化とコミュニケーション技術のためのフェスティバル》を国連ハマーショルド講堂で開催した。

e:障害者のための演劇  更に、児童及び身体障害者に対する社会福祉も緊急な国際的テーマとなりつつあった。1979年、日本ブリタニカでは《国際児童年》に際し、日本に於いて国際児童演劇祭を開催した。
  1981年、センターは初めて手話劇を取り上げ、また同年、チェコスロヴァキアの聴覚障害者連盟が、第一回デフ・シアター・フェスティバルを開催し、センターはこれにオブザーバーを派遣した。
  80年代の新しいテーマ  
  他方、ナンシー(フランス)やヴロツワフ(ポーランド)などによって開始された前衛演劇フェスティバルの時代は、1970年代で、ほぼひとつのサイクルを終了した。つまり、70年代という政治主義の時代に、《前衛》の役割を担った演劇が、80年代という文化主義時代に於いて、新たに《共感》の役割を担ったということ、即ち、コミュニケーションとしての演劇である。  国際演劇は、この新しいテーマに沿ってその係わりを公汎な社会に向かって広げて行くことになるだろう。  

コミュニケーションとしての演劇  
1、児童教育に於ける演劇の役割、   サイコドラマとロールプレイングの応用  
2、障害者の福祉と演劇 手話劇と肉体言語の開発、  
3、環境学、エコロジー、文化遺産 先住民族、少数民族との係わり、  
4、途上国との文化交流 東南アジア、オセアニア、中近東との交流、  
5、より良い演劇の大衆化 劇空間に於けるコミュニケーション(視聴覚) テクノロジーの導入  

1986〜1989の上演計画  
1、「決闘(A・クープリン)」帝政ロシア末期の小説より脚色  (実現)  
2、「ロブン島刑務所」南ア反アパルトヘイト劇   (実現せず)  
3、「叡智の饗宴(P・クローデル)」能とモダンバレーによる全体演劇 (実現せず)  
4、「私は被爆者(洪可異作)」」超線形住民からの告発ドラマ  (戯曲家との契約、一部台本翻訳すれど、実現せず)
5、「モンマルトルの丘の上で(A・ユッソン)」一幕の即興劇  (実現せず)
  4、解説
                                             若林忠宏
 

その歴史に観る「一本の筋=幹」
  上記(この直ぐ上)にある「(1986〜1989)の上演計画」を見て頂くと分かる様に、先の五年間の計画は、実際には2〜3割しか実現していない。その代わり、新たな出会いが生んだ良きせぬ出来事を含んだ新たな展開が残る7割を占めたという結果でした。差額の1割は、時勢に勝てず縮小した部分と言わざるを得ません。

 しかし、ここで見極めるべき大切なことは、父:若林 彰がその信条である「流れに逆らわず、さりとて流されず」を見事実践して来たことです。五年単位で俯瞰、総括すれば、明らかに「筋の通った流れ」が見えます。上記の「上演計画」にしても、この時点では想定外だった、芸術学院研究生への指導や、新興劇団の指導など「後進の育成」及び、韓国演劇人、ポルトガル演劇人など「海外演劇人との共同作業」という大きな発展が実現されました。
そして、実現しなかった「上演計画」の「黒人人権」「モダンバレーとの競演」「即興演劇」は、実現したあらゆる作品の中に必ずや取込まれていた筈です。
 
 この様な「結果としての軌跡」で分かる父:若林 彰の「歩み方=時間の使い方」は、その「演出方針」と全く矛盾しないのです。それは「大きな目標は定めるが、目先や個々の状況や問題・課題に関しては柔軟かつ即興的で、現場の自由な判断に委ねる」ということなのです。「現場の自由な発想、即興、判断、選択」は、「俳優の自由の領域」であったことは、複数の関係者の証言によって裏付けられています。「肝腎なことは厳しく指導されたが、それ以外は実に伸び伸びとやらせてもらい、自らの学びや気づきが促された」と。
 これは、父:若林 彰が、如何に「育てること」を重要視していたかを如実に証明するものでもあります。

 その精神は、1950年代から1970年の国際青年演劇センター立ち上げまで、常人が「異常」と思う程のめり込んでいた「鳥類飼育」とも矛盾しません。

 実際の「鳥たち」は、自由に大空を羽ばたいている様でいて、その生活圏や糧を得る為の条件・状況は、人間がいじくった自然環境の中の限界の中で必死に生きるしかありません。父:若林 彰は、「禽舎」の中に閉じ込め拘束するという「罪悪感」を正当化せず、常に自戒・自責しながら、如何に自然的に伸び伸びと活かすか? 結果、鳥類の専門家や同好・同業者が驚嘆した数々の飼育実績を挙げて来ました。「飼育下で初めて実現した、繁殖、孵化など」です。
 
 人間に対しても、「何でもかんでも許し自由にする」ということがどれほどの「苦痛」であり「不自由なもの」であるかを痛感していた父:若林 彰は、出来る限り大きな 「禽舎」の中で、出来る限りの自由を求めつつ、全体の流れの方向だけは、迷い逸脱することがないように。それに自らの最も重要な責任と義務を課していたのです。

 

その歴史の流れの形 (みっつの重要な流れ)

 父:若林 彰が文学座在籍時代の後半から末(1960/昭和40)年代に、仏戯曲家アラバールを翻訳し、フランス(パリとナンシー)の前衛演劇・実験演劇と出逢った必然から創設の構想に至った「国際青年演劇センター」ですが。  その直接的なきっかけは、ナンシー演劇祭の主宰者J・ラング氏との密な関係から生じた「ナンシー演劇祭日本開催」の動きに応じた、言わば「検討委員会」的な「連絡事務所」の設立でした。

 しかし、その翌年には、J・ラング氏の早急なテンポと、当時の日本の自治体、大学、演劇界などの非常にゆっくりとした警戒的・懐疑的な動きのズレから、言わば立ち消えた形になり、父;若林 彰の提案とリードで、「連絡事務所」は、そのまま「国際青年演劇センター」の母体となり、1970(昭和45)年に正式に創立されました。

 正確には、「ナンシー演劇祭招致が頓挫したから,実行委員会の母胎は独自の存在を求めることとなった」のではなく、「国際演劇祭を日本で行うためには、日本側の結集と進化が急務」との考えで、「招致活動」に火が付いた時点で、「ナンシー演劇祭日本招致連絡事務所」を「国際青年演劇センター」に発展させたのは、招致活動が頓挫する二年前。活動が盛り上がった矢先のことでした。


 「若林 彰の演劇理念」(詳細) でも延べますが、国際青年演劇センター創設以前、父の意志の中には、大きな三つの流れがありました。  

  それは「一人の演劇人として、幼少からの人生と演劇経験の全てを活かした、独自な演劇論と普遍的な演劇の概念の探求と構築」が、最も重要かつ、ある意味、主たる「自己実現」のテーマであったことは確かであろうと思います。

 それと同時・同様・同価値に、父:若林 彰自身が様々なパフレットや国際青年演劇センター趣意書で述べている「或る大まかな意味と価値を持った国際前衛・実験演劇の交流」に積極的に参画することは、裏表なく、父の純粋な願いでした。

 第三のテーマは、それによって「日本の演劇界に一石を投じ、日本の演劇界の発展と充実、ある部分の改革や活力を与えたい」という願いです。勿論、これは誰しもが考えていたことに違いありません。
 ただ、他の方々と根本的に異なることは、父:若林 彰の根本に「利己は、利他によって活性しより実現する」という思想が在ったことです。  詳しくは「若林 彰の演劇理念 (詳細)」及び「若林 彰:人物史 (詳細)」「若林 彰の理念・信念 (人間哲学と思想) (詳細)」で述べますが、    

  例えば、手漕ぎの天馬船の漁師が三人居たとして、三人で合同し、各舟を売って、三倍の大きさの船を買って共有(シェア)し、三倍の収穫を得よう」という方法論が、「一人でやっていること以上の利己に繋がる」という考え方です。

 実際、上手く機能すれば「大漁・不漁」のバラツキ(或る種必然的なバイオリズム)が相乗効果によって、その平均値を上げるからです。
 しかし、実際の社会や人間関係では、「逆の相乗効果」や「悪循環」が生まれることが多々在ります。
 しかし、その原因の多くが、残りの二人が、「利他が利己を補う」とは心底信じていないことによる、こっそり「自分の舟を手放していなかった」とか。共有の収穫を見て「独りじめできたかも知れない」などと考えるからです。  
 つまり、個々でやっている時には、その状態・状況・条件に「不満」を持ち、「皆でやろう!」が良く聴こえ、心に響き。実際それをやってみると「個々でやった方が良かったのでは?」という考えが浮かぶ、という図式。
 つまり、「全てが状況に応じて反応的に考え(そして言動を決定させる)る」という思考(判断)回路です。

 しかし父:若林 彰の考え方は、極めて論理的であり、「大漁=嬉しい」「不漁=哀しい」が交互に訪れるのは「言わば摂理、道理」。要は、その「平均値を如何に上げるか?」という、「思考や科学や理論」という、「目に見えない」ものから考えや案や策を生み出すというものです。

 ところが、それが通じない。何故ならば、「人間の多くは、目の前の魚の量」とか、「あいつは自分より働いていない」とか「あいつより俺の方が腕が達者だ」などという「目に見える現象」が気分・感情、ひいては考えに及ぼす「非論理的で移ろい易い危なげな心理」を分別しないからです。

 その様な感覚の人からは、父:若林 彰の三つの願いの一つ目の「個人的な自己実現」さえも、「二番目、三番目を遂行することでこそ叶えられる」という意識であったことが理解出来ない。自分と同じ様に「腹の中では、利己的な自己実現を抱いているのだろう」としか思えない。
 その様な人は、全ての事柄をその様に見ますから、実際、その様に見えてしまうことも多々ある訳です。  実際、1970年代当時は、「ナンシー連絡所」のメンバーは、皆、父の理念に賛意を示し、全員が「国際青年演劇センター」の初代「正委員」になって下さり。またその時点で新たに加わった方々の多くは、その後も父の企画をサポートして下さったり、逆に父がその方々の作品を取り上げたりの交流は絶えていません。  

 また、方向性の違い(本来、上記の理念と概念から言えば、方向性の違いが生じること自体が本末転倒であり、方向性は、言わば「風任せ・潮任せ」でしかるべきな筈ですが)から、それぞれの活動が発展した方々は、皆演劇史に名を残し、今日でさえも「ネット検索」で豊富な記事が得られます。

 更に、その様な記事の多くが、第三者の賞賛であったり、研究や好意的な評論であったりするのですが、ご存知とは思いますが、父:若林 彰に関しては、今回のこの私の文言意外「殆ど無い」のです。  

 言わば、まるで「日本の演劇界史から抹殺された?」かのような有り様ですが、当時の関係者の方々に聞いても、多少の行き違いや、もしかしたらある程度その方にとっては大きなダメージや過負荷、または期待外れがあったとしても、「何処でも在る話し」とおっしゃってくれる方が多く、「業界から干される」ほどの何かをしでかした訳ではないのです。

  勿論、父:若林 彰は、「巧みに専門で住み分けをする」日本社会独特のシステムの中で、今から50年近くも前から、言わば「多民族的」もしくは「ノマド的」に、ジャンルを超え、時には壁をぶち破って展開していましたから。各ジャンルの経歴、系譜、芸術史の中では、「常に門外漢」であるがために「語られない」ということもありましょう。
  逆に、父が地位と名声と権力を得ていれば、ジャンル云々抜きにして、父との係わりを書こうとする人は多かったでしょうが。

 父:若林 彰の根本にある「利己は、利他によって活性しより実現する」という思想は、「全体主義、ファシズム、共産主義」でもなく、「個人主義」でもない。言わば、「究極の個人主義は、理想の全体主義を実現する」もしくは「その逆」のようなものです。

 これは、全てに当てはまります。例えば「究極の左翼(極左翼よりももっと)は究極の右翼とほぼ等しい。もしくはその逆」「究極の前衛は、究極の伝統・保守と同義である」などなど。

 分かり易く(やや幼稚な喩えになりますが)言えば,「中途半端に現代人に媚びず、究極の伝統を表現すれば、如何に斬新に思えるであろうか」というようなことに似ています。

 しかし、日本の演劇界はもとより、観客の方々、企業、自治体、いずれもが、父のこの発想を理解しなかった。加えて、「イメージ」も「ブランド力」も足りなければ、自然に黙殺されてゆくのもしかるべきなのでしょう。