国際青年演劇センターとは

 

1、日本で初めて不条理演劇/ネオ・バロック演劇を本格的に紹介 (1965〜)

2、本邦未上演海外戯曲を数多く初演 (1965〜)

3、日本のプロ演劇集団として初めて仏ナンシー演劇祭に参加 (1968〜)

4、日本のプロ演劇集団として初めて第三世界演劇祭に参加 (1968〜)

5、日本で初めて複数の劇団の為の海外交流センターを運営 (1970〜)

6、海外演劇演劇祭に数多く参加 (1968〜)

7、海外演劇人を多く招聘 (1971〜)

8、日本(世界)で初めて謡曲、歌舞伎、日本舞踊で西洋戯曲を上演 (1972〜)

9、日本(世界)で初めて謡曲、舞踊、歌舞伎、文楽にロックを導入 (1973〜)

10、日本で初めてアフリカ演劇人と共同制作 (1973)

11、日本で初めて本格的に暗黒舞踏と演劇を融合 (1973〜)

12、日本で初めて普遍的・多角的に人種差別・人権問題・弱者支援を上演 (1980〜)

13、日本で初めて普遍的・多角的に障害者支援演劇を上演 (1981〜)

14、日本で初めて普遍的・多角的に韓国・朝鮮問題を上演 (1980〜)

15、日本で初めて本格的に韓国・朝鮮演劇人と共同制作 (1980〜)

16、日本で初めて普遍的・多角的に先住民文化問題を上演 (1982)

17、日本で初めてポルトガル演劇人と共同制作 (1982)

18、日本で初めてペルー演劇人・音楽家と共同制作 (1990)

19、日本で初めて本格的に琵琶楽と演劇を融合 (1990)

20、日本で初めてロシア演劇人と共同作業 (1996)

21、著名な演劇人(戯曲家・演出家・俳優)と共同制作

22、数百人の老若男女演劇人が参加

23、日本で初めて世界の民族音楽(生演奏)を演劇に導入 (1973〜)

24、日本で初めて普遍的・多角的に原爆・被爆問題を上演 (1999)

解説

  1、日本で初めて不条理演劇/ネオ・バロック演劇を本格的に紹介 (1965〜)
  「三輪車の男たち(アラバール)」1971
 

1965(昭和40)年西戯曲家アラバールの「戦場のピクニック/青い風船」を翻訳、文学座アトリエ公演で上演されたのをかわきりに、アラバール戯曲集二巻出版、また、若干前の時代であるが、白戯曲家ゲルドロード未発表戯曲も上演。

仏ナンシー、ポーランド・ヴロツワーフ演劇祭などにオブザーバー数度招待され最新の前衛演劇を数多く吸収した。また、ベルギー、ケニヤなどから前衛演劇を日本招聘上演にも尽力し主催、共同主催した。



左:篠原大作氏、右:在日ベルギー人俳優ジァン・カンピニョン氏


  2、本邦未上演海外戯曲を数多く初演 (1965〜)
  「晩餐会への招待(G・フォアシィ)」1993  

上記、アラバール、ゲルドロードの他、G・フォワシィ、T・ラディガン、H・イプセンなどの本邦未発表、もしくはほとんど発表されていない戯曲を数多く紹介した。

「ドストエフスキーという名の亀(F・アラバール)」(1970)
「三輪車の男たち(F・アラバール)」(1971)
「逆賊ハロワイン(ゲルドロード)」 (1972)
「いら草小町壮衰記(F・アラバール)」(1974)
「聖体拝受/遁走曲(F・アラバール)」 (1979)
「狂気の館(D・ラードウ・ポペスク)」(1980)」
「勇士オヤンタイ(インカ伝説)」 (1980)
「草墳(呉 泰錫)」 (1980)
「羅生門(脚色:マイケル・ケイニン)」(1982)
「ミミ・パンソン(A・ミュッセ)」 (1984)
「セビリア狂騒曲(セルバンティス幕間劇集脚色)」日本未発表戯曲
「死にっぱぐれの舞踏会/喪服の女たち(ゲルドロード)」 (1988)
「預言者バシオン(ドミニク・スタンカ)」(1990)
「銘々のテーブル(T・ラティガン)」 (1991) 日本再演
「深い青い海(T・ラティガン)」}(1992)
「晩餐会への招待(G・フォワシー)」(1993)
「ヘルゲランの勇者たち(H・イプセン)」(1994)
「ティー(ベリナ・H・ヒューストン)」 (1995)
「決闘(クプリーン)」(1996)
「原子野 (ケニス・ロビンス)」(1999)


  3、日本のプロ演劇集団として初めて仏ナンシー演劇祭に参加 (1968〜)
  J・ラングと議論を重ねる若林 彰   1968(昭和43)年文学座より派遣されたことをかわきりに、1970(昭和45)年、1971(昭和46)年と続けてオブザーバー招待を受け、1971年には、同フェスの日本開催計画の為に主宰者J・ラングを日本招待する。

 しかしながら、当時の日本の行政、地方自治体、文化人の動きは鈍く、逆にJ・ラング氏は非常に急いていた。ほどなくラング氏ぼ演劇フェス主宰を辞し政界進出した。

  4、日本のプロ演劇集団として初めて第三世界演劇祭に参加 (1968〜)
 
 

1971(昭和46)年マニラで開催された「第一回第三世界演劇祭」にオブザーバー参加し、ソウルで開催された1981(昭和56)年では、在日韓国人二世のドキュメントを暗黒舞踏も加えて上演。
 

 

 

 

左の写真は、「日本の前衛演劇に於ける伝統演劇の継承」などについて発言準備をする若林 彰。1971(昭和46)年「第一回第三世界演劇祭(マニラ)」


  5、日本で初めて複数の劇団の為の海外交流センターを運営 (1970〜)
  浜田善弥氏と若林 彰 (Venezuela/1976)   1970(昭和45)年「英 I.T.I:国際演劇協会」の依頼で「1960年代の日本記録演劇」を調査、レポート記事を英語で提出、掲載されたことをかわきりに、寺山修司氏・天井桟敷、戸板康二氏(評論)、中城まさお社、浜田善弥劇場、舞踏社、大田省吾氏・転形劇場、を様々な国際演劇祭出演をコーディネート。

  6、海外演劇演劇祭に数多く参加 (1968〜)
  「代執行(浜田善弥) 」若林 彰:演出
Venezuela/1976



現地到着直後の様子
  ルーマニア演劇視察、ルーマニア政府文化庁招待(1968)

ナンシー国際青年演劇祭:オブザーバー、
ピーター・ブルック・プロジェクト(パリ、文学座派遣1968)

第七回仏ナンシー国際演劇会議:オブザーバー(1970)
第八回ナンシー演劇祭にオブザーバー(1971)
   寺山修司、戸板康二氏を引率、

第三回ヴロツワーフ(ポーランド)演劇祭:
   新作狂言参加をコーディネート(1971)

第一回第三世界演劇祭(マニラ)オブザーバー(1971)

第三十一回ベニス・ビエンナーレ:
   能狂言、歌舞伎、現代狂言、新劇(三十人会)をコーディネート(1972)

第四回ヴロッワーフ演劇祭 天井桟敷参加をコーディネート(1973)

ギリシア文化芸術祭:羅生門上演(1974)

第十八回オーストリア演劇祭参加「古事記(中城まさお作演出)」
   コーディネート(1975)

第四回イタリア民族芸能祭参加、「かっぽれ(桜川ぴん助)」
   コーディネート(1975)

第五回ヴロッワーフ演劇祭:転形劇場上演をコーディネート(1975)

第七回パレルモ演劇祭:アートスペース乱気流(1976)

第三回カラカス演劇祭:浜田善弥劇場、コーディネートと演出(1976)

第二十一回レフカス民族芸能祭オブザーバー招待(1976)

地歌舞(出雲蓉舞と踊りの会)「サロメ」アメリカ巡演(1976)

第八回パレルモ演劇祭の舞踏社参加コーディネート(1977)

第五回セルバンチノ芸能祭(メキシコ)「山椒大夫」上演(1977)

「山椒大夫」ペルー・リマ公演(1977)

第九回パレルモ演劇祭「山椒大夫」上演(1978)

第一回演劇と開かれた芸術のための国際会合、
   ウロツワフ(ポーランド)、「山椒大夫」上演(1978)

第二十一回リェージュ(ベルギー)演劇祭、「山椒大夫」参加(1978)

「海峡」第五回・第三世界演劇祭参加(1981)

「オルフェス(ギリシア神話)」ひとみ座(人形劇)
   世界聾唖者演劇祭提携参加:ブルノオ(スロバキア/1981)

アイヌ伝統芸能:世界先住民族演劇祭提携参加、
   ピータバラ(カナダ/1982)

アイヌ伝統芸能;ラ・マーマ劇場(ニューヨーク)提携公演(1983)

「預言者バシオン」「アプ・インカ・アタワルパ」「耳なし芳一」
   パレルモ演劇祭参加(1992)

「傷だらけの手(藤川健夫)」米三都市巡演(1995)

  7、海外演劇人を多く招聘 (1965〜)
    インターアフリカンシアター(ケニヤ)日本招聘・制作(1973)

ヴィシナル演劇実験室(ベルギー)日本招聘・制作(1974)
   F・アラバール招聘(1974)

ジェージ・メノエ(俳優・演出家、ケニヤ)日本招聘(1974)

ソウル・アンサンブル(シム・ウースン/人形劇)(1981)

「ポルトガル尼僧の手紙」ポルトガル演出家、俳優を招聘(1982)

ジョン・ウェールズ(佐渡文弥人形研究家)講演会(1983)

ベリナ・ヒューストン講演会(1995)

ケニス・ロビンス来日講演会(2000)、

左の写真は インターアフリカンシアター(ケニヤ/1973)

  8、日本(世界)で初めて謡曲、歌舞伎、日本舞踊で西洋戯曲を上演 (1972〜)
   

1972(昭和47)年、白戯曲家ゲルドロード作品を、1974(昭和49)年アラバール作品を謡曲で表現(観世栄夫氏監修)

単純に近代歌舞伎をコラボさせるのではなく、歌舞伎の源流「謡曲」「日本舞踊」に遡って本質的な融合を実現する。

 

 

 

 

左の写真は、「刺草小町壮衰記(アラバール)」(1974) の小川真由美さん
翻訳・脚色:若林 彰/観世栄夫氏と共同演出、


  9、日本(世界)で初めて謡曲、舞踊、歌舞伎、文楽にロックを導入 (1973〜)
   

1973(昭和48)年の文楽とロック音楽の融合をかわきりに、「羅生門」「山椒太夫」などに謡曲、日本舞踊とロックを融合させる。

 


左の写真は、「文楽とロック:梅川・忠兵衛」翻訳・脚色・演出:若林 彰 
歌手:松岡計井子氏と人形師:吉田小玉氏、
文楽人形のみならず、人間まで操らせた。


  10、日本で初めてアフリカ演劇人と共同制作 (1973)
   

1973(昭和48)年「ケニヤ・インターアフリカンシアター」を招聘、

翌年主宰者ジョージ・メノエ氏を招きアラバールに本初招聘でアラバール作品を上演。

 


ジョージ・メノエ氏と演技について熱いやりとりを重ねる若林 彰


  11、日本で初めて本格的に暗黒舞踏と演劇を融合 (1973〜)
   

1981(昭和56)年、ソウル開催の第五回・第三世界演劇祭参加に「白虎社」、1990(平成2)年「耳なし芳一(東京、イタリア)」で大駱駝艦・麿 赤児氏に監修・指導を賜り、1993(平成5)年以降は、麿 赤児氏門下:大坪光路氏を5作品で起用。麿 赤児氏の絶賛を賜る。

 

 

1995(平成7)年 初演、1996(平成8)年 アンコール公演をルーマニアで上演した「狼少年(寺山修司)」に若林 彰が起用したのは、麿 赤児氏門下:大坪光路氏。


  12、日本で初めて普遍的・多角的に人種差別・人権問題・弱者支援を上演
(1980〜)
   

1979(昭和54)年国際児童演劇フェスティヴァル審査員、(在日二世物語)
1995(平成7)年 「ティー」混血日本人妻の物語、
「洛神の賦(三国志)」残留孤児問題、
「傷だらけの手」長崎被爆者、
1996(平成8)年「狼少年(寺山修司)」などを上演。様々な問題に於いて「被害者救済・支援」及び「代弁・告発」はもちろんのだが、それに納まらず、「被害者・加害者」双方の心に潜む陰・闇の部分も問いた。

 

 

 

米兵と日本人妻の混血児で米国に渡り戦争花嫁の差別を乗り越えた ベリナ・H・ヒューストンの自叙伝を戯曲化、作者の訪日講演会も提携・主催。(1995)


  13、日本で初めて普遍的・多角的に障害者支援演劇を上演 (1981〜)
    1981(昭和56)年国際演劇祭・手話劇出演。同年「オルフェ(人形劇)」世界聾唖者演劇祭(スロバキア)提携参加する。同時に、アラバール作品「ファンドとリス」、二つの被爆者問題でも「障害」について掘り下げた。

国際演劇祭・手話劇「異説・酒呑童子(森井睦)」 演出:竹内敏晴/演出協力:若林 彰/振付:森田守恒
新進気鋭の戯曲家・演出家:森井 睦氏の作品を、国際青年演劇センター・レギュラーStaff(音楽、照明、音響、美術、舞台監督、制作)及び、若林 彰の国内人脈、助成、海外人脈を駆使し、全国10ヶ所巡演とハンガリー・ブダペスト公演を達成

  14、日本で初めて普遍的・多角的に韓国・朝鮮問題を上演 (1980〜)
   

1980(昭和55)年「草墳」、在日韓国演劇人と提携、
1981(昭和56)年第五回・第三世界演劇祭参加「海峡」「日韓人形劇交流週間」主催。軍国日本の犠牲、民族間の差別感情に納まらず、それぞれの社会集団に於ける同族間の確執や、ここの人間の心の中の葛藤をも説いた。


「海峡」第五回・第三世界演劇祭参加 (1981)


  15、日本で初めて本格的に韓国・朝鮮演劇人と共同制作 (1980〜)
 
呉 泰錫 (オ・タエスク)戯曲家・演出家
 

1980(昭和55)年「草墳」、在日韓国演劇人と提携。単なるイデオロギーや社会的告発を越えたレベルで共感を交わした共同作業を行った。

軍国日本の植民地支配、在日の差別被害、極北・樺太や広島・長崎での強制連行の被害などばかりでなく、在日一世と二世父息子の確執や、古い悪習によって自らを苦しめる人々の人間心理を深く掘り下げた。


  16、日本で初めて普遍的・多角的に先住民文化問題を上演 (1982)
   

1982(昭和57)年アイヌ伝統芸能と提携公演、世界先住民族演劇祭カナダ出演。

1983(昭和58)年アイヌ伝統芸能ラ・マーマ劇場(ニューヨーク)出演協力 。未だ、アイヌ芸術家が興行的才覚を備える前の時代に、その活動と海外への発信を強力にサポート。

1960年代からの海外演劇祭参加を通して、自国の文化性に自負と責任の誇りが無ければ対等に渡り合えないことを痛感。日本の伝統文化及び感性について徹底的な探求を通じてそれを身につける。その結果の非凡な愛国者でありながらその一方で、仏教、儒教に於ける大陸(中国、インド)帰化人。猿楽・謡曲及び雅楽に於ける半島帰化人の存在。そして、沖縄人、アイヌへの深い憧憬と敬意を抱き、その文化、伝統、感性に強く着目し、その芸術・芸能活動に大きく尽力した。


  17、日本で初めてポルトガル演劇人と共同制作 (1982)
    1982(昭和57)年「ポルトガル尼僧の手紙」ポルトガル演出家&俳優と交互演技。同じ舞台で日本とポルトガルの演出家・俳優がダブルで上演する斬新かつし烈な企画を実施。

  18、日本で初めてペルー演劇人・音楽家と共同制作 (1990)
   

1980(昭和55)年日本ペルー合同公演「勇士オヤンタイ(インカ伝説)」。ペルー側の厳しい時代考証、衣装、音楽指導の中で、日本伝統の謡曲、舞踊、説教節などの技法や様式美の表現を認可させ、現地の絶賛を得るに至った。
  ペルー側からは、演出顧問:ラファエル・エルナンデス氏を初め、インカ時代の民族衣装考証、及びペルーの伝統民族音楽とロックを融合したバンドを招聘し、生演奏で上演した。

 

写真は、インカ皇帝を演ずる故市村俊幸氏。


  19、日本で初めて本格的に琵琶楽と演劇を融合 (1990)
   

「耳なし芳一」1990(平成2)年東京、1992(平成4)年イタリアでは、薩摩・錦心流琵琶:輝 錦統氏に監修を仰いだ。
 
 

 

 

 

「耳なし芳一」の稽古の様子。貴重な琵琶をお借りして稽古した


  20、日本で初めてロシア演劇人と共同作業 (1996)
    1996(平成8)年「決闘(クプリーン)」では、帝政ロシア末期の兵士の苦悶を描いた。それは、時代の流れ、大衆の群れ心理に翻弄され奪われる「心の自由」の物語であった。

インナ・ガバイ(ボリショイドラマ劇場:サンクト・ペテルブルグ)監修、ガバイ女史の招聘は叶わなかったが、時代考証・衣装考証を仰ぎ、伝統と時代のリアリティーを追求した。

  21、著名な演劇人(戯曲家・演出家・俳優)と共同制作
   

佐々木昭一郎氏、寺山修司氏、森繁久彌氏、市村俊幸氏、観世栄夫氏、奥村公延氏、青木道子氏、岸田今日子氏、小川真由美氏、日色ともゑ氏、冷泉公裕氏、大久保正信氏、児玉謙次氏、岩崎智江氏、島村久枝氏、李 三郎氏、鈴木林蔵氏、麿 赤児氏、脇野義澄氏、森富士夫氏、磯 秀明氏、など当時も今も第一線の著名な俳優、演出家が出演、協力。森井 睦氏、大石 静(現脚本家)氏、黒川逸朗氏、篠本賢一氏、藤吉悦子氏、羽田 真氏、大坪光路氏など、当時若手、現在の第一線のアーティストが参加した。


最前列中央で胡座の陽気な男性が奥村公延氏、


  22、数百人の老若男女演劇人が参加
    1970年代初頭から1999年迄の30年弱に、出演した俳優の総数は300名を越え、振付・殺陣・監修・時代考証・作曲・生演奏などのアーティストは80名を越え、演出・舞台監督・制作・企画・照明・音響・効果・装置・大小道具・衣装・ヴィジュアル・記録などのスタッフは、各代表者のみで、失礼ながらお名前が記録されていない配下・助手の方々を数えず120名を越えた。


「ヘルゲランの勇者」終演後の記念撮影 (脇野悦子さんご提供)

  23、日本で初めて世界の民族音楽(生演奏)を演劇に導入 (1973〜)
   

1973(昭和48)年 ケニヤ民謡・舞踊。1980年ペルー・アンデス民謡、1982アイヌ民謡。1986アンデス民謡、ルーマニア民族音楽。など、ワールドミュージックブーム(90年代)に先駆けて民族音楽を導入。その多くが生演奏であった。

 

 

ルーマニア民族楽器「Nay(パンフルート)
大束 晋さん

       

  24、日本で初めて普遍的・多角的に原爆・被爆問題を上演 (1999)
    1984 強制連行被爆者ドキュメント戯曲の作者洪 可異氏招聘講演会。

1997(平成9)年「傷だらけの手」長崎被爆詩人:福田須磨子の半生-英語版。米三都市巡演。

1999(平成11)年「原子野(ケニス・ロビンス)」被爆米兵物語を上演。日本人被爆者のドキュメントのみならず、米兵被爆者も取り上げ、作者を日本招聘し講演会を主催し、日本上演依頼を受け一部翻訳作業を行いながら実現しなかった強制連行・韓国・朝鮮人被爆者のドキュメントも手がけた。

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