若林 彰・国際青年演劇センター  Biography

  このページは、父:若林 彰のBiographyの目次のページです。父:若林 彰が実際に実現した様々な演劇とその内容。及び、そこで父:若林 彰が何を思い、何を考え、それらから何を生み出したか?についての検証は、それぞれの時代の「詳細ページ」でご紹介いたしております。
 よって、このページで、長々と書きましたのは、息子の視点から当時リアルタイムに見た事を元に、あくまでも私の私見でそれぞれの時代を総評したものです。
 とは言っても、父に厳しく躾けられた論理的思考による検証が主ですから、感覚・印象的なものよりは、事実に近いのでは、と思っております。
   

  第一幕 (第一場):1954〜1963 文学座研究生時代 (28〜37歳)
 

 父:若林 彰は、戦直後GHQ本部通訳の仕事に就きましたが、一度目の結核発症・入院で一二年を棒に振ります。その後、一念発起して文学座研究生となるのですが既に28歳。同期、後輩よりも5〜8歳年上でのスタートでした。

 収入が少ない研究生時代。当然舞台に上がっても台詞の無い「村人」や
「兵士」のひとり。にも拘らず最初の結婚をし私が生まれます。出遅れた人生に腐らず頑張ろうとした数年後。「そろそろ準座員か?」という五年目に結核が再発。また三年辛い闘病生活を送ります。

しかし、それでも父:若林 彰は、演劇と文学座から逃げる様なことはしませんでした。この時代の末1963(昭和38)年の初頭には、盟友:三島由紀夫さんら14名、年末には憧憬を抱いた先輩:芥川比呂志氏、同期の岸田今日子、名古屋章、山崎努、加藤治子各氏に、義姉(私の母の兄嫁):中西由美を含む29名が脱退するという文学座史上比類無き大事件の年にも、ぐっと堪えて文学座に居続けたのです。

 
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第一幕 (第二場):1964〜1969 文学座演技部時代  (アラバールなど海外戯曲と出逢う) (38〜43歳)
   父:若林 彰は1964(昭和39)年、晴れて演技部正座員に昇格します。途中三年の結核入院の休座もあって、十年掛かっての異例の遅さでした。
  準座員から一年で正座員昇格は、前年に中堅・若手50人近くが脱退したから「俳優が足りなくなった」ということもあったのかも知れませんが、辛抱と頑張りと忠誠心が認められたと思いたいところです。

 それからは一気に中堅主要メンバーとなり重要な役を頂くとともに、TV・ラジオ派遣もあり、寺山修司さん、佐々木昭一郎さんらとの出逢いを得ます。

 加えて、長い闘病生活に読み漁った海外戯曲を翻訳してみれば文学座アトリエ公演に抜擢され、演劇雑誌「テアトロ」「新劇」に翻訳台本が取り上げられ、一躍同業の間で、ほぼ年齢相応の存在感を得るに至ります。

 ルーマニア戯曲の翻訳でルーマニア文化庁から演劇視察に招待され、文学座からはナンシー国際演劇祭にオブザーバーとして派遣され、一気にヨーロッパ前衛演劇・実験演劇の専門家となって行くのです。

二度の闘病を辛抱し、先輩・盟友の脱退時も辛抱し、40歳でやっと(押しも押されぬ一人前の)「演劇人生」がスタートした様な形でした。

 
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  第二幕 (第一場):
1970〜1971
文学座時代末・KSEC創設 (欧州演劇祭〜ナンシーFes招聘に奔走) (44〜45歳)
   父:若林 彰は、主要演劇雑誌の翻訳台本掲載の他に、1967(昭和42)年アラバール戯曲集1「戦場のピクニック(思潮社)」が出版されたことに加え、文学座に踏みとどまった御陰で、当時連立する前衛演劇、アングラ演劇の潮流の中では他に類を見ないアカデミックな存在として、演劇界内では一目置かれる存在となっていました。

 そして、60年代末には年に数回訪れていた海外演劇祭に於いて「日本の演劇人の代表」として認められ、様々な招待や上演オファーを受けます。中でも当時前衛と実験劇の総本山であったナンシー国際演劇祭と主宰者ジャック・ラング(後の仏文化相)の格別な信頼を得て(帰国時空港迄ラング氏がご自分の車で送って親密な話しをしたことも)、「ナンシー演劇祭日本招致」に向けて奔走し「ナンシー演劇祭日本連絡事務所」を立ち上げます。

 ところが父:若林 彰は、普通ならば「ナンシー演劇祭日本開催準備委員会」とすべき盛り上がりの最中にも拘らず、「連絡事務所」を一気に「国際青年演劇センター」に昇格させるのです。

創始期メンバーは、仏文学者、露文学者、演出家、俳優、錚々たるメンバーで、なんと「テアトロ編集長」から横浜ボートシアター主宰:遠藤啄郎氏まで名を連ねています。父:若林 彰の本意は、「海外演劇祭を呼ぶならば、それ迄に日本の演劇人の有志を結集し対等に渡り合える様にせねばならない」でありました。

 この時期、父:若林 彰は、アラバール作品を二つ,初めて自主上演します。

文学座は、前時代末の「シラノ(67年)」と「五稜郭(69年)」で、情熱と想いを出し切ったのか?(実際その頃の家での台詞稽古は鬼気迫る者がありました)「握手・握手・握手(飯沢 匡)(69年)」で助演級の重責を担った後、出演は無いようで、席だけ置いているような状態でした。

 
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  第二幕 (第二場):
1972〜1973
KSEC:欧州活動活発化  (ナンシー断念しKSEC活動を充実させる) (46〜47歳)
 


逆賊ハロワイン

 幾度となく海外演劇祭に赴き、とりわけナンシー演劇祭とは強固な関係を得ながらも、当時の日本演劇界、文化人、地方自治体の冷ややかな反応に、「ナンシー演劇祭日本招致」は、頓挫に終わります。

 まさかその懸念があった訳ではないでしょうが、父:若林 彰が「ナンシー招致実行委員会」を組織せず、その先を観て組織していた「国際青年演劇センター」は、ナンシーやヴロツワフ(ポーランド)演劇祭の各国の常連仲間が各国で立ち上げた演劇祭に、自主企画及び有志日本の劇団の上演コーディネートで相次いで呼ばれ、ナンシー演劇祭日本開催に劣らぬ充実した活動を展開します。

  東欧とベルギー四ヶ国を巡演したベルギー戯曲家ゲルドロード作品を謡曲で表現した「逆賊ハロワイン」は、なんと凱旋公演さえも含め日本での上演をしていません。
 
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  第二幕 (第三場):
1974〜1976
KSEC:国内活動活発化  (複数劇団と共同制作、アラバール招聘) (48〜50歳)
 
「刺草小町壮衰記(アラバール)」
主演:小川真由美

 父:若林 彰がナンシー演劇祭日本開催に奔走した真意は、演劇雑誌や新聞で熱く語ったことと一切違わず、「日本の演劇人に、何が日本の命・力であり、何が足りず、何がどれほど西洋演劇に遅れ劣っているか?を悟らせること」に他なりませんでした。 つまり「日本の演劇の成長と発展」です。それが水戸藩足軽頭11代目の父:若林 彰が奉公し忠義と命を捧げた、言わば「殿様」だったのです。

 父:若林 彰の演劇人生の「第二幕 (第二場)」では、まず「ナンシー同級生」が次々立ち上げた各国の演劇祭で作品を上演し、日本の演劇が世界の第一線に通用することを示した後、「第二幕 (第三場)」で既存の日本劇団を叱咤激励し、海外演劇祭上演をサポート、コーディネートするのでした。
 前時代後半からこの時代に掛けて、父:若林 彰が送り出した寺山修司さん、観世栄夫さん、中城まさおさん、大田省吾さん、桜川ぴん助さんたちは、きっと皆さん父:若林 彰の本意と熱意を深く理解して下さっていたに違いありません。
 ですが、演劇界の中では、父:若林 彰の目的もまた、ご自分と同様に「利己的な武勲・名誉・地位の為」としか理解しなかった人も居たことも事実の様です。
 この時代の冒頭に、アラバール日本招聘という画期的な出来事を達成します。上記の本人の意図になかったという理由もあって、直接的には父:若林 彰の利するものにはならなかったようですが、多くの演劇人に衝撃的な影響を与えたことは事実のようです。しかし、アラバール自身の奇行や、劇場側の暴挙(開演1時間前の中止勧告=数年後「悲劇喜劇」にて父が反論を明言しています)もあって、中々大変だったようです。

 
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  第二幕 (第四場):
1977〜1978
KSEC:第三世界活動活発化  (山椒太夫・中南米公演) (51〜52歳)
 
「山椒太夫」の一場面

 父:若林 彰は、その演劇人生の「第二幕 (第四場)」で、(息子の私には、その深い想いは痛い程分かりますが)常識的に観て、否、そもそも
「前衛演劇・実験劇」が常識的(世間的、大衆的、一般的)である筈もありませんが、それでも「正攻法」からは遥かに逸脱した方向に舵を取るのです。

 「正攻法」ならば、「日本の演劇を海外演劇祭に通用させた功労者」の名誉と地位を確立することを最優先すべきだったでしょう。例えば、大学芸術楽部や文学部の教授の座を幾つか得て、しっかりとしたバックのある劇団を主宰しつつ、演劇祭の日本招致や日本主催の演劇祭の実現などで立場を確固たるものにする、などなど.............。

 ところが、父:若林 彰は、水戸藩足軽頭の先祖の血のせいか?
「正義・忠義・志無き武勲や知名度」を否定してしまったのです。
 殿様の居ない今日現在、父:若林 彰が忠義と命を捧げる対象は
「日本演劇のしかるべき成長と成熟」以外の何ものでもなかった。

 大学の存在は全否定はしていなかった筈ですが、欧米の様な「政治権力から完全に独立自治を誇る存在」と比べれた場合の、「官僚予備校」の様な性質には多分に嫌悪感を抱いていた。

また、その官僚(お役人→各種財団など)や政治家も、「明治政府の流れ=言わば仇」とでも(DNAが)思っていたのか? 反抗的でしたし、やはりヨーロッパ型の「自主独立の誇りを持つ地方都市」とは大きく異なった当時の日本の自治体にも興味は無かったのでしょう。

「ならば何故助成金を頭を下げて貰うのか?」。それは、「官僚・お役人は虫が好かぬけれど、元々は民衆(国民)の税金。頭を下げてその「血税」を、日本の演劇の為に有効活用すべきと考えたからに他なりません。勿論これも正しく理解しない演劇人が少なくなかったのですが。

 そんな父:若林 彰が結局取った「舵」は、「第三世界演劇」との交流でした。
 世界の演劇界では、それが最先端の価値観ではありましたが、日本では「第三世界ものをやればお金が出る」と言われた「企業メセナ〜バブル景気の時代」の十年も前のことです。「時代に先んじ過ぎた」では済まされない程のズレがありました。

 

 
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  第三幕 (第一場):
1979〜1981
KSEC:第三世界及び社会的弱者支援活動活発化 (53〜55歳)
   既に第二幕 (第四場)で、「地位と名誉」を得る道を逸脱してしまった父:若林 彰は、「日本の演劇の成長」さえにも期待をしなくなってしまったのでしょうか?  
 ただひたすら「自分が信じれる演劇」に邁進し、孤高の闘いを繰り広げるばかりとなりました。

 勿論、その戦の度に召集する兵士の中には、志に共感してくれた頼もしい演劇人も居たでしょう。逆に、「面白そうだ」のレベルの人も居たことでしょう。
 前者の「意に感じて」下さった方々は、この時代の後に訪れる、決定的な挫折の時代を温かく、かつ力強く支えてくれました。

 しかし、最早「日本の演劇を牽引する」存在からは少しずつ、しかしはっきりと道が逸れて行ったこともまた事実でした。

 尤もこの時代を境に、日本の演劇自体が大きく変化し、「ウケることが幸せ」という演劇人にとっては「黄金期」。「伝え気づかせ考えさせること」を志す演劇人にとっては、「不毛・暗黒・冬の時代」が到来します。
 その意味では、「ポリシーのある演劇」のリーダとして苦悶するよりは、ドンキホーテの様に自分の世界で孤高に邁進していた方が幸せだったとも言えるのかも知れません。しかし、それでは、身近な有志は苦労ばかり負わされてしまいます。まるで「殿様商売」的なのですから。

 
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  第三幕 (第二場):
1982〜1985
KSEC:欧州回帰と演劇教育 (56〜59歳)
   この時代には、「振って沸いた」様に、「演劇教師」の仕事が舞い降ります。正攻法ならば、十年も前に手にして、この頃には「不動の地位」を得ていたであろう仕事でしたが、父:若林 彰にとってはつかの間の充実したやり甲斐のある時間だったことでしょう。

しかし、芸術学院付属劇団は、学院そのものの突然の消滅で「泡」と消えます。ところが「捨てる神あれば拾う神あり」で、新興劇団の専任演出家の仕事が直ぐに飛び込んでくるのです。ところがこれも二三年で「泡」と消えてしまうのです。

 世の中の人々が「バブル景気」とその崩壊を味わう五年も前のこと。そんなことまで先んじてしまったのです。

 この時代、生涯最初で最後の「宮使え」をあまりに真面目に集中してしまったことも父:若林 彰の「掛け違い」のひとつかも知れません。同業から観れば「研究生演劇」では、物足りないのは当然のこと。せめてこの時期に、経済的・精神的な安定を得ながら、無理のない規模で旧知の名優・歴戦のスタッフさんたちと小劇場上演を続けていれば、それなりに「演劇文化」に貢献も出来たと悔やまれます。
 
 この時代の冒頭では、文学座時代の盟友:岸田今日子さんを起用してポルトガル演劇人との「競演」を果たします。岸田さんと言えば、文学座の基礎を築いたお父様:岸田国士氏〜リーダー:芥川比呂志氏といった日本の新劇の最もオーソドックスかつアヴァンギャルドな王道を貫いて来た俳優さんです。

そのご支援ご尽力でスタートしたこの時代を、「後進を育てる」ことだけに費やしてしまったことは誠に残念に思えてなりません。(それほど深く強い諦めと焦燥感を抱いていたのでしょうが)。
 
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  第四幕 (第一場):
1986〜1989
KSEC:時代の渾沌と挫折感 (60〜63歳)
    「拾う神」は二度は現れませんでした。否、正しくは、この時代と次の時代に、強力に父:若林 彰を助け支えて下さった方々に救われ,その演劇人生を復活させるのですが、それに至る迄のこの三四年は、たったの二三本の上演しかありませんでした。

それでも、ゲルドロード(ベルギー戯曲家)の未発表戯曲や、父:若林 彰ならではの論理的・理論的手法による日本の古典「羅生門(薮の中)」など、父らしい上演が実現しました。
 
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  第四幕 (第二場):
1990〜1994
KSEC:創立20周年:復活と充実 (64〜68歳)
 
「インカ伝説」の丹羽たかねさん

1970年前半からの長いおつきあいの演出・舞台監督さん、二三人の演出・企画・制作の才覚もある俳優さんの存在によって、この前の第四幕 (第一場)で、数は少ないけれど信じれる演劇を再び見ることが出来た父:若林 彰は、この第四幕 (第二場)に、言わば軌跡の復活を果たします。

 助成金の問題で土壇場になって海外演劇祭こそは逃しましたが、北区文化振興財団の支援で、父:若林 彰ならではの論理的・理論的に意義深い「三部作」を上演。その他、規模はやや小さいですが経験豊富な俳優さんを揃えてカフェ・テアトル的な場所や、小劇場的な場所で中身の濃い、オーソドックスな正統演劇を上演します。しかし時代は徐々に厳しくなってもいました。

 
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  第四幕 (第三場):1995〜2000 KSEC:活動末期:人権問題と原爆問題(アメリカ/ルーマニア) (69〜74歳)
 

結果的に、最後の活動期間となった第四幕 (第三場)は、中北部の一州とは言え米三都市を巡演し、ルーマニアには二年続けて演劇祭に遠征し、二年目は一年目の好評によるアンコール公演でした。

 奇しくもこの最後の五年は、日本人作家二名とアメリカ人作家二名、ロシア人作家一名の作品で、最後にはアラバールもゲルドロードもなかったのが皮肉です。アメリカ人作家は日本招聘・講演会も催しています。

 
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