若林 彰とは
(1926/昭和元年12月26日上海生/水戸武士の家系/長男/申年/山羊座/O型/右利)
(趣味: 鳥類飼育、読書
)

  ヴェネスエラ演劇祭:50歳当時

1、一般人間としての性格
1)常識や観念に捕われない自由な発想を持つと同時に、道理・摂理を自然に理解し普遍的な感覚を持って居て、「反骨」「閉塞感」はあまり抱かず「開拓精神」旺盛な『申年』の一般傾向に矛盾しない。
2)何かに集中し、猪突猛進的に邁進する『山羊座』の一般傾向に 矛盾しない。
3)その一方で、比較的「寛容」「柔軟」である反面、 「優柔不断」に陥り易い『O型』の一般傾向も併せ持ち、「常識的、模範的」な『右利』及び、真面目、実直、責任感を抱き易い『長男』の一般傾向も矛盾しないで併せ持つ。
4)ところが、基本的な資質に「独立独歩、反骨、プライド」の『水戸藩気質』と「殿様商売」の感覚に陥り易い『武士の家系』の一般的傾向も併せ持つ。

5)総論としては、上記の様な相反する性質を先天的に多分に持ち、自己矛盾とその葛藤に内面的に苦悶する資質があったと思われる。(その様は、ヘビースモーカーに現れているが、酒癖が悪いということは決してなかった)
6)
親の同様な資質に対する「反面教師」や「自戒」を糧に「自尊心、優劣感覚、比較意識、自意識、被害者意識」を強く嫌い、「大自然」と「人間以外の生き物」をこよなく愛する人物であった。
7)その一方で、 「非自意識系」の「シャイ」と「美意識」が旺盛で、「生き様」「有り様」にはこだわりが少なくなく、「ロマンティスト」で「寂しがり屋」。少年期の「臨死体験」と成人してからの長い闘病生活(結核)中の所為の「文学青年的傾向」から、「思慮深さ(幾分考えすぎる傾向」も少なくない。

以上は、様々な一般論的・統計論的に普遍的な傾向であり、やむを得ない資質が為すものであるが、本人は一般を遥かに上回りこれらを自覚していた。必然的に内面でかなり苦しみ哀しみを抱きながら、克己と自律を繰り返しつつ、ひたすらその解放の先を演劇芸術の探求と昇華に向けたことは間違いない事であろう。

     
  2、前衛・非商業主義演劇では、海外で最も知られた日本の演劇人

1960年代後半〜1990年代前半、海外に於いては日本を代表する演劇人のひとりであった。とりわけ仏ナンシー、ポーランド・ヴロツワーフ、ブルガリア・ソフィア、オーストリア、イタリア・パレルモ、ギリシア・レフカス、 ヴェネスエラ・カラカス、ベルギー・リェージュなどの国際演劇祭では、1970年から20年、日本演劇界の代表であった。

写真:マニラ演劇祭でJ・ラング(Nancy演劇祭主宰、後仏文化相)と議論する若林 彰
     
 

3、寺山修司、唐十朗と並ぶ前衛・実験劇の演出家

1950年代に日本の演劇を牽引した戦中からの演劇人と、1960年代に社会問題等を取り上げた日本の若き前衛/アングラ演劇人の狭間の世代に属する。寺山修司(天井桟敷)氏、唐十朗(状況劇場)氏、鈴木忠志(早稲田小劇場)氏、大田省吾(転形劇場)氏、佐藤信黒(自由劇場・黒テント)氏らとは10歳〜ひとまわり年長であったが、先輩風を吹かせることは一切無く。特に寺山氏とは盟友であった。大田氏は先輩として事務所を訪れ教えを請うたと言われ、寺山氏、大田氏及び劇団は、若林 彰のコーディネートでナンシー演劇祭に、浜田善弥氏及び劇団はカラカス・ヴェネズエラ演劇祭に出演した。浜田善弥劇団2作品の一方は若林 彰が演出した。
写真:Nacy演劇祭に引率した寺山修司氏と打ち合わせ中の若林 彰

     
 

4、元文学座俳優

在籍1954(昭和29)年〜1972(昭和47)年、荒木道子氏の後輩、加藤武氏、岸田今日子氏の同期、江守徹氏、小川真由美氏、悠木千帆氏の先輩、在籍中の1971(昭和46)年アラバール戯曲翻訳がアトリエ公演に選ばれる。在籍中に結核が再発し入院で昇進が遅れるが、役34上演に出演、後期「シラノ・ド・ベルジュラック(1967)」「五稜郭血書(1969)」では大役を任ぜられる。

写真は研究生当時30歳頃。大学を出てGHQで通訳をした後、文学座研究生と成る前に、一度目の結核入院。終戦の渾沌と入院で入団自体が5〜6年遅かったところに、通常「準劇団員か、同待遇」になるだろう入団5年目に結核が再発。入退院を繰り返し、丸二年休座を余儀なくされ、準座員になるまで通常の倍近い九年を費やす。同昇進が通常より速い同期の加藤 武氏、岸田今日子氏、後輩の江守 徹氏、小川真由美氏らに引き離され追いつかれながらも演劇から逃げず、文学座からも逃げなかった。丁度復帰の二年後の1963(昭和38)年1月に芥川氏ら29名、同年年末に三島由紀夫氏ら14名の大量脱退があったが、憧憬の先輩:芥川氏、盟友:三島氏、さらに義理の姉:中西由美(文学座演出部〜雲〜円)らに随行せず文学座に留まった。

     
  5、葛藤と克己の演劇

  反体制・反伝統、イデオロギーが主流で、不条理やデペイズマンがもてはやされた 時代の前衛演劇・実験劇の世界に於いて、常に「相反するものの対峙を包括する」ことを主義としていた。否定こそはせずとも、単なるアンチテーゼ、反体制、告発といった、今日でさえ社会演劇、映画、文学の主流になっている「対立構造」を好まず、「全ての問題の根源は、一人一人の人間の内面にある相反する心理にある」とした。 しかし、その思想と理念は、近しい共演者たちにも中々理解されず、演劇界、社会に於いても評価どころか理解さえ十分に得られなかった。

写真:水戸藩足軽頭の末裔10代目の父親(享年89)で亡くした49歳の頃、
     
  6、イソップ寓話「コウモリ」のような立場(理解・扱い)に甘んじた

 上記4、の理由から、社会、集団は、常に「被害者意識、比較意識、対立意識」を抱き、同志と言うより利害を共有する群れで集団を形成していた。例えば、政治イデオロギーをテーマとした前衛・アングラ演劇集団には、「右派・左派双方に通じ包括する」姿勢は、何処からも「味方ではない」感覚で受け止められた。同様に、日本と韓国・朝鮮の様々なテーマに於いても、「軍国日本の犠牲」の側とも共有共感をしつつも、日韓を問わない伝統的悪習や封建的不条理を説いたが、やはり右翼左翼のどちらからも「完全な仲間」とは思われなかった。  また、原爆被爆問題では、広島・長崎の日本人被爆者に留まらず強制連行の韓国・朝鮮人被爆者、駐留米軍及び米国核実験被爆米兵士にも着目し、やはり被爆者とその支援者には「完全な仲間」とは思われなかった。同様に、演劇界・演劇人にとっても、前衛、アングラ、政治演劇、実験劇、及び非商業主義演劇の全てに通じると共に、どれかだけでない(不偏的な)姿勢は理解されなかった。
     
  7、内面的・本質的な対峙(コラボレーション)の先駆者

若林 彰は、「文楽とロック」「西洋戯曲と歌舞伎」などのコラボレーションを日本で最初に実現させたが、そのコンセプトは、表面的な物珍しさや斬新さでは決してなかった。既成の「歌舞伎」は、数百年掛けて形作られた「総合芸術」であり、若林 彰は「歌舞伎」を「お国歌舞伎」の時代迄遡り、「シルクロード大道・放浪芸人〜猿楽〜能狂言・謡曲〜傀儡師〜平曲〜浄瑠璃〜日本舞踊」の系譜に求め、更には、全世界に通じるアニミズムやシャーマニズムに迄その骨子を求めた上での「対峙:コラボレーション」を構築した。この感覚と理念は、後の時代も今日現在も誰も実現していないばかりか、しようとも、必要・必然とも考えていない。  さらに、原点に立ち返った検証の上で、長い歴史と伝統と、数多の芸術家の心血の産物である伝統美、様式美を命(理念、志)として見定め。コラボレーションの骨子に不可欠のものとして導入させた。
     
  8、大衆性ではない不偏的な普遍性

マニアック思考に於いては当時も今も、大衆性を否定することにこだわった結果の偏った指向性を持つことが「社会に毒されない」かのように考えられがちであるが、若林 彰は全く異なる発想でこのテーマを越えていた。それは「普遍性の質の問題」であった。  例えば子どもが「ご飯を食べずにおやつが食べたい」「勉強より遊びがしたい」であったり、大人も同様に「仕事をせずに遊んで暮らしたい」「大人に成れば勉強(学び・思考)は不要な筈だ」「難しいものより簡単が良い」「否定されて成長するよりは、肯定されて堕落する方が心地良い」などが「大衆性の本質」とするならば、若林 彰はこれらを断固否定した。何故ならば、それらは「真の自由を阻害する精神性」であるからである。  成長期の子どもに限らず、「学び、思考、論理性、甘味料より苦くても必須栄養素、良薬口に苦し」は「不偏的に普遍」な筈である。若林 彰は、それを如何に魅力的に大衆に伝えることが出来るか?をおぼろげながらの10代から常に考えており、演劇人となって以後は、それが最重要課題となった。  しかし、自己の精神性が「ご飯よりおやつ」のレベルであることに気づかない人間には、若林 彰の理念は理解されなかった。それどころか「おやつ(という文化)を否定する者」であるとさえ曲解された。そして、一度そう思い込んだ人間は、若林 彰の演出・翻訳に非凡に豊富に漲る「笑い、微笑み、ユーモア」が「哀しみ、嘆き」より遥かに豊富なことを見失った。因に、その演出・翻訳の範疇には(原作にあっても抑えられる限り抑え)「恨み、妬み、嫉み」は殆ど登場しない。何故ならば、それらも「大衆が理解し易い心情」であるからであり、安直で短絡的な理解を得ようとは決してしなかった。
     
  9、若林 彰と商業演劇

「常に相反するものの対峙的共存」を由とした若林 彰にとって、「反体制」同様に「反商業主義」も、「偏った(かたわな)」発想に過ぎなかった。故に、頑に「反商業主義」を標榜することはなかった。その結果、「反商業主義ではない=商業主義を肯定=結局本心は、商業主義」とさえ幼稚に解釈する人間も少なくなかった。  しかしこれも前述の様に「安直な大衆迎合による商業的成功」は断固否定しつつも、「不偏的な普遍性で必要・必然なものへの対価は、大衆的に肯定される筈である」と考えた。幾分理想論であったが、その必要性と価値を大衆が見出せば、必然的に質と価値が高い物であれば収益は得られる筈であることを目標値としていた。しかし、1950年代から60年代迄のヨーロッパにはその兆しがあったが後に劣化し、日本ではついぞ今日迄その精神的土壌は育たなかった。やむなく、大衆の意識や意図が反映されていないが税金をより質と価値の高い文化・芸術に費やすことを二次的に選択せざるを得なかった。これもまた、幼稚な解釈をする人間には、「体制に媚びている」としか映らなかった。
 しかしながら、根本的な元凶は、若林 彰の問題に留まらず、当時の演劇、日本の芸術文化全般に言えることとは言え、「商業主義的な成功」は目指さずとも「経済的基盤の構築」という必須課題に関し、最低限を下回ることも多々あり、志を共に抱く戦友、敬愛してくれる後輩や門下、手を差し伸べてくれる先輩、同期に多大な苦労や哀しみを与えたことも想像に難くない。
     
  10、若林 彰とシェイクスピアの謎の関係

 前衛や非商業主義からスタートしている演劇人は別として、若林 彰ほど、シェイクスピアと無縁だった演劇人も世界的に見ても希であろう。若林 彰自身の意図・目的に於いては、上記した理由から「安直に肯定されるシェイクスピアは断固否定」であった。ところが謎は、文学座に於いても、研究生時代から中核的存在に至った後期でさえ、一切シェイクスピア作品に出演していないことである。研究生や準座員待遇の身で出演の命を拒否出来たのであろうか? それとも、文学座演出部の聡明な理解であったのだろうか?もしくは、宿命を証明する運命的な結果であろうか?  しかし、近松門左衛門を日本文化に於けるシェイクスピアであるような解釈を否定はしない。幸いにギリギリ近松には高尚や品格をイメージさせるものが残って居た。何より近松には、人間の愚かや業を掘り下げる姿勢が見られ、その登場人物は、名も無き一介の庶民でも成り立つものであった。それに対し、シェイクスピアは、為政者、権力者、歴史的人物でなければ、誰も見向きもしない様な日常茶飯事とありふれた妬み、嫉みの類いが殆どである。  それでも尚、否、だからこそチャンスと条件さえ揃えば、若林 彰は「似非の品格」ではない「普遍的な人間物語」としてのシェイクスピアを、自ら望んで蜷川幸雄氏以上の作品に仕上げたに違いない。もしくは、その前段階(通過儀礼)として、「誰よりも下品なシェイクスピア」を表現し「より事実に近いもの」を具現してみせたかも知れない。  それは自らを蜷川氏以上の存在であると証明する為では毛頭なく、日本の演劇と観客の成長の為であり、その根源的原動力は、蜷川氏やそれを肯定する演劇人以上に「演劇」と「シェイクスピア」を慈しみ,敬意を抱くからである。が、この精神性も全くに近く理解されなかった。
 しかし、前述した様に「比較意識、自意識、優劣感、被害者意識」は、「欠乏」とさえ言える程持ち合わせなかったが為に、シェイクスピアをもてはやす人間や蜷川幸雄氏などに対して「張り合う意識」なども皆無であった。勿論何かの話しの流れで相づちを打つ様なことはあってもさして重要なテーマでは断じてなかったのである。
  が、逆に言えば、例え「ポーズ(フリ)」でも反骨や張り合いを見せていれば、それなりに支援者や出資者が得られた時期もあったに違いない。いずれにしてもそれらによって経済的基礎を構築してから自己の理念を行動に移すことが道理であるならば、蜷川氏の爪の垢を煎じて飲むべきところは多々あったと言えるだろう。
     
 

11、若林 彰にとって「最も不条理なもの」とは、

 上記した「誰よりも下品なシェイクスピア」は、実際チャンスと条件が揃ってもやらなかったかも知れない。何故ならば若林 彰は、誰よりも「時間には限りがある」ことを意識していたからである。故に「半年でも一年でも早く」世の中に「必要なことの必要性」を理解して貰う使命があったし、それを「分かり易く説く」方法論を探し出す。もしくは、「誰もが普遍的に深く感動する何か」に到達せねば成らなかった。
 よって、
彼自身の自戒と後悔と挫折と自責の中では、随分と無駄や回り道をしたと解釈されていたに違いないが。その系譜を俯瞰するに、そこには無駄らしきものも、彼らしからぬものも一切見当たらないばかりか、「出会いとチャンス」に対し従順に対応しているにも拘らず、あたかもシナリオがあったかのような「必然的な段階」を経ているかのようにさえ見える。
  ひとつにそれは、若林 彰の信条に「来るものは拒まず、去るものは追わず」があったからである。それによって「巡り合わせの運命」や「出会いと別れの必然」に真摯に従った結果が、無駄や回り道が少ない理由であろう。しかし、若林 彰が最も憂いた「不条理」が産む「二次的・二重の不条理」には、むしろ大いに振り回されたに違いない。
  その「最も憂うべき不条理」は、多くの人間の心理・心情の中に存在するが、殆ど認識されていない。それは、「気分、感情、印象、決めつけ」もしくは、それらを制御・自律・克己出来ていると錯覚している人々の多くが執着・依存する「固定観念」や「善悪感、道徳観といった観念」及び「損得感情や比較意識、疎外感、優劣感」などが産む「打算、利己主義」などによって、理念や信念、理想や夢が打ち砕かれる「不条理」であった。
  この「個々の人間自らで作り出す不条理」こそは、あらゆる「不条理」のどれよりも難解で難攻不落で、そして何よりも増して残虐で強力なのであった。
  つまり、殆どの人間が、その「感性と創造力と想像力」及び「思考力と論理的普遍性」が成長・発揮されることを自らの「不安、不満、不測に対する恐怖」によって台無しにしてしまうという「不条理」の存在を認めようとせず、「外因に反応し振り回されること」が元凶であるにも拘らず、常に自己が被害者であり不遇であるという正当化でやり過ごそうとすることによって理念や信念、志が犠牲を蒙る構造こそが「最も憂うべき不条理」であると主張していたのである。が、当然のごとくこれこそは最も理解されなかった。

     
 


米戯曲家講演会を共催した73歳の頃

12、流れに逆らわず、さりとて流されず
 上記した「人間自身が内在する強力で惨忍な不条理」について若林 彰は、おそらく幼少の頃に気づいていたのだろう。しかし、それを認識・表現する語法を持たなかった。もしかしたら、それは晩年に至っても尚持ち得なかったかも知れない。  いずれにしても、諸悪の根源が、人間の内面に存在する以上、それに対する反逆や、告発は虚しい作業に終わることは明白である。何故ならば、そのことを認めない人間たちは皆「裸の王様」のようなものであり、その取り巻きは王にそれを諌言出来ない、しない家臣のような存在なのだから。従って、若林 彰がやむなく選択した処世術は、「流れに逆らわないこと」であった。そして、その状況に対し、真摯かつ謙虚に身を置きながらも、失ってはならないものを守り、破ってはならない掟を自らに課し、越えてはならない一線を引いたのである。その姿は「流れに流されず、さりとて逆らわず」に他ならなかった。
  実のところは、若林 彰自身がその言葉を発していたかどうか?は分からない。故に「座右の銘」であったかどうかも分からないが、彼のマハトマ・ガンディーの言葉  

   貴方が如何に困難であろうとそれを為さねばならないのは、それによって世の中を変える為ではありません。世の中に貴方が変えられない為なのです。(要約)

 これこそは、若林 彰の「流れに流されず、さりとて逆らわず」という生き方、演劇人生、そして演劇テーマの根底にある哲学であったことは間違いない。
     
 
1994年「ヘルゲランの勇者たち」 上演後、俳優・スタッフに囲まれて、68歳
13、全ては「陰陽」の概念にたどり着く

 全ての諸悪の根源は、個々の人間が等しく内在している。このことに気づきつつも尚、キリスト教や儒教の説く「善悪観念」でそれを理解・解釈しようとする多くの人間が、それを「人の心に潜む闇」程度に表現しやり過ごそうとしていたのに対して、若林 彰は、「国際青年演劇センター」を創設した1970年代辺りから、根本的に異なる理解をしていたと考えられる。  「闇」を「影」とするならば、それは「陽」が当たれば必ず存在(生じる)する「陰」であり、西洋キリスト教文化の多く、及び東アジアの国々の精神性の根底に刻み込まれたであろう(歪められた)儒教的感覚が解釈する「善悪」では説明し切れないものであることに気づいたのであろう。  「闇=影=陰」と「光=陽」は、「陰陽」であり、この世の全て、宇宙の全てに於いて平等に不偏的に、同等量存在するのが道理であり真理であるのだ。さすれば、その一方を隠し、押し込めたところで正常であるとか真っ当であるとかの考えはいずれは破綻する「まやかしの善」であることに気づいたのである。  奇しくも「陰陽の概念」は、若林 彰が生まれ育った中国で生まれた。そして、それを封じ込める為に権力者の思想が利用したのが儒教であり、それによって、原産地中国よりも韓国・朝鮮半島、及び日本の庶民の多くが苦しみの歴史を積み重ねたのである。  若林 彰は、その様子を水戸藩馬廻り組頭の家系を引く封建的な父親。台所の隅で密かに涙ぐむ母親。父親以上に上海の中国人庶民を卑下罵倒虐げた日本人の姿を見て育った。
     
 

14、示唆に富んだ作品を駆使してそれを説き続けた
 全ての元凶が、全ての人間が心に内在する不可避不可分の心理にある。つまりそれは「陰陽」の関係性であり実態である。  このことは、彼の岡倉天心(1863〜1913)は薄々気づいていた。少なくともキリスト教やねじまげられた儒教では説明出来ない真理をアジアは理解していることを西洋に説いた。逆に善悪観念の世界から東洋に身を投じた小泉八雲(1850〜1904)は、より深く認識していた。芥川龍之介(1892〜1927)も、太宰治(1909〜1948)もまたしかりであるが、明確にはその正体を暴くには至っていなかった。アレクサンドル・クプリーン(1870〜1938)も、ヘンリク・イプセン(1828〜1906)も、ミシェル・ド・ゲルドロード(1898〜1962)もまた善悪観念の世界に居ながらそれらに気づいた人々であった。がいずれもその正体を簡潔に示すには至らなかった。勿論、そのような戯曲や文学は、その課題の探求を受け手に示唆・提示することが到達点であるという考えもあろう。その意味では、いずれの作品も、人々の心を強く打ち、覚醒させるある程度の力を持っていた。
 
若林 彰は、それらの作品に新たな力を与え、時には、組み替え、強調してより一層分かり易くして人々に示そうとした。しかし、観客のみならず、共演者の多くでさえも依然「裸の王様」を決め込んで理解しようとしなかった。若林 彰に大いに賛同し感化されたものでさえ、従来の「心の闇」としてそれを解釈し解決しようという感覚が殆どであった。もしくは、その問題を自分以外の何かにすり替えようとする無意識(深層心理)の衝動に気づこうとさえしなかった。その結果どうでも良い人間関係や運営上のやりくりなどを犯人に仕立て上げようとした人間も少なくなかったに違いない。

     
  15、答えを追い求めた人生ではない

 人々や世間の理解はどうあれ、ひとつ紛れも無いことは、若林 彰は、「答えを追い求めた放浪者」ではなかったことである。若林 彰は、その答えを幼少の頃に気づき、少年・青年期には確信したが、それを人々に説く語法を持てなかった。  つまり「答えは分かっている」が、それを「説く方法が得られなかった」のである。その為に若林 彰は、ありとあらゆる手法や作品を駆使してその表現・伝達・啓蒙に務めた。その結果、彼の業績には、大きな根本的な筋道が明確かつブレずに存在し得るのである。「答えを探し続けて放浪する者」の軌跡にはそのような筋は見出すことは不可能である。
  しかし、人間は、「答えを探し続け放浪する者」の方を圧倒的に好む。何故ならば、殆どの人間が同様であるからである。「答え」どころか「元凶」は、自分の内面にあるのだから。言わば「犯人」は、自分なのである。しかし、人間は、それに気づこうと気づくまいと、否、深層心理で気づいているからこそ、「犯人を他に求める」。それと同時に、「自分を正しいと言ってくれる人間、言葉、集団」を求める。もしくは、「このままで正しい人間になれる方法」を探し求める。その様な逃避的放浪の心理は、同様な「放浪者」を好み、賞賛し、名人、天才と崇め奉るのである。  
  ところが若林 彰は、「方法を求めて放浪していた」のである。もしくは、より理解出来る素質のある土壌や人間を求めていたとも言える。その姿は、先祖シャーマンが悟った真理や奥義を基礎に、より享受出来る観客・観衆を求めて放浪すると共に、使命が刻まれたDNAに導かれるままに東西を放浪した、シルクロードの放浪‥大道芸人や、吟遊詩人の姿そのものなのである。  大衆が自らの深層心理との共通性で好む「放浪者」は、言わば「宝探しの放浪者」であり、本質的には「逃亡者」であるのに対し、放浪・大道芸人は、既に宝(叡智と技術)を持ち合わせ携帯しているのである。言い換えれば、「放浪」は、その「宝」の使い道であり、また「磨き更に豊かにする」唯一の方法である。故に、近親者や賛同者が呆れる程、その「放浪」は、止めども無く続き、そのスピードは、「彷徨い歩く者」とは比べものにならないほど速いのも当然なのである。
     
 

16、哀しい誤解の瓦礫の道行

 自らの心に存在する「答え」と向かい合い、直視しようとせず、「宝探し」の様な放浪癖や願望がある人々は、同様な人間を好み、その上で際立ったり目立った人間を賞賛する。そして、それを正当化してくれる「答え」や、罪を肩代わりしてくれる「冤罪の犯人」や「『生け贄」を探し求める。   全ての人間に於いて、「答えは自分の中にある」ということと向かい合わない人間は、いずれも大なり小なりこの過ちを犯していることは紛れもないことである。  しかし殆どの人間は、この問題に気づいてさえも居ない。そして、常に、条件や環境や、人間関係やそれが生んだ言葉や感情といった外的要因に対する反応や対応に追われて人生を終える。その上で、それらの災いが極力軽微であることを望み、それを平穏無事と解釈して人生を逃げ切ることを由とするのである。
彼の村上春樹がそのベストセラー小説の中で、と或る登場人物にこう語らせた。

世間の人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というものは、強い痛みを伴って手に入れるもの。 ところが、殆どの人間は痛みを伴った真実など求めない。彼らが求めるものは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれる美しく心地良いお話なのだ。  
  存在を意義深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、存在を矮小なものに見せるのであれば、それは偽物ということになり、そう主張する者がいたら、人々はその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。  
  論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている
。」  

 
村上春樹氏がその小説の登場人物に語らせた、言い得て妙なこの文言に当たる人間像は、所謂圧倒的多数の大衆的で一般的、かつ真っ当とされる善良な市民のことであろう。  つまり、「演劇人」及び『芸術家」たるや、そのような大衆と向かい合い、対峙し、決して迎合することなかれと肝に銘じつつ、大衆のより高次な理解と賞賛を求め(夢見)ながらも、日々の糧を得ねばならぬという矛盾と葛藤を受け止めながら、ギリギリの線引きの上で生きているものである。    従って、演劇人もその他の芸術家も、人によってこのテーマの理解や気づきは誠に千差万別なのである。故に、上記村上春樹氏の文言にほぼ近い人、全くその通りの人も居れば、遥かに遠く、むしろ民衆のこの精神性に悩み苦しんでいる人も居たであろう。  が、ここで肝腎なことは、人間というものは、個人や一対一では、自己の理想像を見せたい思われたいも手伝って、真摯で謙虚で自律心、克己心豊かな陽であったり、そう見せたがるものである。 ところが、一旦数人以上の「群れ」となった途端に、最も低い意識で共感・統率される傾向にある。「独善的、何様」と思われたくないからである。このことの残酷さと悲惨さは、父:若林 彰の世代ならば、過去の戦争の時代の日本人の大半の様子を思い浮かべ痛感していることであろう。  実際、父:若林 彰に関わった演劇人の多くは、父の才能と業績と影響力を好意的に高く評価してくれている。中には恩師と名言して下さる人も居る。そして、その中の少数は、自らでそのことを世間に公言している人も居る。  しかし、かつて公言しつつも、次第にトーンダウンしたり、私にはそう言って下さっても公言はしていなかったり、様々であり、やはり「総体」としては、群集心理的であり大衆的なのである。演劇人とて、一般大衆のひとりなのである。  勿論、個々には個々の事情がある。が、かつて「鬼畜米英」のシュプレヒコールを合唱した人々でさえも、「個々の理由がある」と言ったに違いなく、「回りが皆そうするから従わないとはぐれるから」と正直に自覚し認める人間は、何時の時代にもそうそう居ないだろう。

     
    17、父:若林 彰と係わり、父を支えた人々にインタヴューをして

 私はこのサイトを立ち上げるに際して、父:若林 彰の遺産の演劇資料の編纂を行った。父:若林 彰は、1970年の創設以来、国際青年演劇センターの活動報告アルバムを五年毎に発行していたが、Vol.1(1970〜1975)、Vol.2(1975〜1980)、Vol.3(1980〜1985)のアルバムは発行され、1990年は、センター所蔵演劇文献目録で精一杯だったようで、本来発行されるべきVol.4(1985から1990)、Vol.5(1990〜1995)、Voll.6(1995〜2000)は存在しない。その時代は、それ以前と比べて父の加齢に加えて世の中の不景気や変調もあった。故に、情報量は激減したに違いない。  とは言え、1990年に「創設20周年記念」を出すつもりはあったし、それが叶わなかった2000年には、なんとしても30周年記念アルバムを発行したかった。実際、その原稿となるべきものが存在する。が、その所為であちこちの写真や記事などを切り貼りし新たなアルバムの原稿を造り始めたところで力が及ばなかった為に、編纂に取り組む私には極めて困難なものとなった。台紙に様々な写真を貼付けただけで、キャプションは全て父の頭の中にあったままであったからである。    それでもなんとか九割がたは、俳優さんの衣装や大道具などで判別し解読に成功したのだが、どうしても分からないものが残された。それを救ってくれたのが、故脇野義澄氏夫人悦子氏、丹羽あかね氏、そして、父:若林 彰と国際青年演劇センターのほぼ初期から25年中の23年を共にしてくれた舞台監督・演出・俳優の野口ひろとし氏、野口氏が加わる前の数年と文学座からの移行時期を知る名古屋:劇団シアターウィークエンド主宰の松本義臣氏、同じ時代に「KSEC名古屋」を立ち上げた神宮寺啓氏とそのお仲間たち、そして、同じヴェネスエラ演劇祭に行きながらも父:若林 彰が演出したチームとは別のチームであったにも拘らず温かい対応をして下さった、今や青年座の重鎮児玉謙次さんだった。 皆さんは、貴重な証言に加えて、このサイト立ち上げに関してとても温かい励ましのお気持ちとお心を下さり、お忙しい中に資料をまとめ、ご自身にとってもこの10年20年、大切に保管していた唯一のものを一時とは言え、貸して下さるために郵送して下さった。  その他にも出来る限り多くの出演者さんとコンタクトを取った。中には、「喧嘩別れした」という方も居た。それでもその方でさえ、私の意図や望みを応援してくれたのである。「あんな奴の大昔の仕事など今更調べても意味も価値も無い」とは思わないでくれたのである。尤も、その方の「決別の理由」は、演劇に関係ない運営上の問題であったからもあるのだろう。しかし、それでもお話を伺っていて、根本的な誤解や不理解が多いこともまた、改めて再認識したのであった。  それは、「喧嘩別れをした」とおっしゃってくれた人のみならず、「なんとなく自然に」距離が生じ、広がって行った人達もしかり。更にそれら全て今となっては「昔のこと」。誰しも想い出は美しく思いたいし、故人については、良いことばかりを思い浮かべたいものでらろう。  しかし、それら「人それぞれ」の根底には、日本の演劇が、「目的を共有した対立」に成長しないまま、「共通の概念」を構築しないまま、結果論として「試行錯誤」で終わってしまった問題があるに違いない。それは日本の演劇がやり残した極めて受容な課題(責務)であり、父:若林 彰にとっても悔やみ多きテーマであろう。  そのようなことを思い浮かべ、悔しさを押し込めざるを得ない諦め気分が生じ始め、このサイトの落としどころを見失いかけていた頃、正直言ってあまり期待していなかった父:若林 彰の芝居に参加した若い出演者さんから大きな啓示と励ましを頂いたのである。  1970年代は、旧知の俳優さんたちに支えられていた父:若林 彰の芝居に、若手が加わる様になったのは1980年代90年代である。その時代は、劇団四季、つかこうへい氏、そして第三次小劇場ブームといった商業演劇台頭の時代であり、高度成長期の頂点からバブル崩壊に到る、文化の価値がどん底に迄墜落した時代である。  
     

  より詳しくは、    
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